2010年10月17日日曜日

週刊誌化した議会と新聞

 ちょっと調べたいことがあってgoogleで検索したがどうしても見つからない、疲れたあげくためしに「米原正尚」と入力してみたら思いがけないものが画面に出てきた。25年程むかしOR学会機関誌に発表したわたしの論文である、おそらく学会で入力したものであろうが初めてお目にかかった。ずいぶん長い文章だったが懐かしく読み直してみた。
 まだ若く仕事が楽しかったころである、そのころわたしが部下に厳しく言っていたことの一つに『会議などでひとの提案に反対する場合は必ず対案を示せ、時間の無駄を避けるために対案のない反対は賛成と見なす』というのがあった。若い部下たちの成長にはかなり役立ち成果があったと自負している。なぜこんなことを思い出したか、それは最近の議会での遣り取りを思い浮かべたからである。
 「仙閣諸島問題で政府のとった対応は生ぬるい」、人を替え場所を替え政府のとった対策を責め立てる。しかしどうすれば良かったのかは誰も触れない。触れないと云うよりはなんにも対案がないのが実態なのだろう。だったら何も言うな、空虚で時間の無駄だ。まさか自衛艦を派遣して[ドンドンパチパチ」やれと言う訳でもないだろう、今後のこともある「こうすべきだった」「こうしたらよかった」[今後はこうすべきだ」と、責任ある対案を示して政府を追及すべきであろう。腹に据えかねた官房長官が、「もっとも拙い質問だ」と云いたくなるのも無理は無い。野党の議員は全く無責任な週刊誌と変わりない。新聞テレビも同じだ、論争の最低のルールすら知っていない。
 と叫んでみても儚い[傘寿+1の抵抗」か!!!!!!

2010年10月13日水曜日

猛暑の爪痕


             
 今年の夏は暑かった。パソコンのある部屋には冷房がないので10分居るのが限度、ブログなどとてもじゃないが書いてはおられなかった。やっと凌ぎやすくなったので久しぶりに机の前に座る気になったところ。
 幸い体は比較的健康に過ごすことができたが、一番被害を受けたのは庭も樹木と草花、炎天下にすっかり傷ついてしまった。まず竜のヒゲ、20年前に10株買ってきてやっと庭一面に増やしてきたものが、毎日直射日光に曝されすっかり茶色に枯れてしまった。(左上写真)
つぎに『ハナミズキ」、そもそも暑さにはあまり強くないので秋を待たずに葉が落ちて惨めな姿になってしまった。来年咲く花芽もごく僅か、少なくてもよい咲いてくれるかどうかが心配だ。(右上写真)
  

2010年3月16日火曜日

Aランチ

 先日のこと、昼前になって家内が街に出掛けると言い出し「昼飯どうしようか、用意しているとおそくなるし」とつぶやいた。「外でうどんでも食べればいいじゃないか、俺は冷凍食品を食べるから心配するな」と返すと、「なんでうどんなの」と不服そうに云う「じゃー何を食べるつもりか?」と、冗談まじりに問い返すと「Aランチ」ととっさに返ってきたので思わず二人で「古い」と大笑いしてしまった。
 私たちが広島に移って来たのは40数年前、育ち盛りの二人の男の子お抱え、おまけに前の年隣から出た火災に類焼して無一物になっており、生活はとても苦しかった。
 その頃家内は愚痴も云わず「私のこと、皆さん人形みたいと云ってる」と明るく振るまい暮らしていた。「人形みたい」とは、美しいとか可愛いという意味ではなく何時も同じ服を着ていると云うことである。街に出掛けるときも学校の参観日にも常に同じ服、辛かったであろうが懸命に生きていた。
 そんな一家の楽しみは、当時ひとつしかなかったデパートの屋上遊園地で子供たちを遊ばせ、大食堂で食事をすることだった。そしてその理想の献立が「Aランチ』、ランチにはA.B.Cのランクがあり最も豪華なのが『Aランチ」だった。しかしそれは見果てぬ夢、結局は安いうどんかラーメンせいぜい奮発して『Cランチ」、楽しいそしてちょっぴり淋しい思い出である。
 今はデパートの大食堂もなくなり、もちろん「Aランチ」もない。食べ損なった恨みが40年経ったいま、つい口に出たのか、久しぶりに老妻を愛おしく感じた。

2010年2月21日日曜日

光の春

終日明るい日差しの降り注ぐ春らしい上天気だった。2月に入って初めではなかろうか、実に久しぶりの青空で心も晴れ晴れとしてきた。
 光に誘われて外に出てみると風は意外と冷たい、思わず首を竦めてしまう。昔の人はこの季節を素晴らしい言葉で表現している、つまり俳句の季語で「光の春」と云う。風は冷たいが暖かそうな日の光はすっかり春を思わせる、まさに今の季節が「光の春」である。俳句の季語には秀逸なものが多い、光の春もその一つで「なるほど」と、思わず膝を叩きたくなるような、まさにそのものピタリと言い表した言葉である。
 今日は私の誕生日だった。これからの一年、今日のような穏やかな一年であって欲しいものである。
 二人の嫁からの贈り物、そして孫娘からの祝いのメールなど素直に嬉しかった。
 妻がどっかに夕食を食べに行きましょうと誘ってくたがいささか億劫にも思えて、冷凍のズワイガニを買ってきて二人でかに鍋を突つくことにした。

2010年2月11日木曜日

小沢捜査に思う

 検察の思惑は外れ、小沢幹事長に「白だった」と結論を出さざるを得なかった。
 この間の経緯をみながら、ふと松川事件を思い出した。昭和24年8月、東北本線の脱線事故を受け、すぐさま国鉄労組、東芝労組の先鋭分子による行為だと予断した検察と警察は、チョイ悪だけどひ弱な、しかも未成年だった赤間勝美を別件で逮捕し、嘘の自白を強要し架空の「松川事件」なるものを作り上げてしまった。
 ひょっとしたら今回も、見るからに気の弱そうな石川議員を逮捕し、第二の赤間少年にしょうとしたのではないか。
 ところがどっこい石川議員は赤間少年と違って図太く検察が期待する役割を果たしてはくれなかったという訳だ。
 野党やマスコミも未練がましく、いつまでも幹事長辞任だ、議員辞職だと騒がずに、本来の予算審議などにせいを出したらどうだろうか。

2010年1月15日金曜日

金のなる木が咲いた



 十数年ぶりに『金のなる木』が咲いた。以前大きな植木に咲いていたが、老木になって枯れてしまった。その枝を二本挿し木しておいたものが大きく育ち、やっと花が咲くようにまでになったものである。
 変哲もない花だが名前が良い、何となく縁起が良く嬉しい気持ちになった。今年は良いことがありそうな気もしてきた。そういえば今年最初の『ロト6』で1000円が当たった、ここ何回かカスばかりだったのでわずか1000円でも晴れ晴れとした気分になれた。
 15日には孫娘「あすか」の成人式を祝うこともできた。小さい頃からよく面倒をみていたので「大きくなったなあ」と、大きな喜びとちょっぴり淋しさを感じたりした。
 もうひとつ、3月には東京の孫の入試の朗報を聞きたいものだと念じている。正月から良いことが続いているので、必ず良い便りがあると信じたい。

2009年11月21日土曜日

わがやの小さな冬




 庭のアメリカみずきの葉っぱは散りはて紅い小さな実が淋しく残っている、気が付いたらサザンカの花が2〜3輪咲いていた、いつの間にか我が家の小さな庭にも冬が訪れたらしい。
 八十路の声をを聞いてから何となく疲れを覚えるようになってきた、別にどこがどうってことはないが、なにをするのにも気怠い。60そして70、いま80、大台を超えるのは難儀なことだ、しみじみと歳を思い知らされる。
 しかし、先日小学校1年生の「昔あそび」にゲストテーチャーとして招かれた。竹とんぼ遊びの指導を担当したが、小さな子供たちに「おじさん、おじさん」と囲まれ
「とんだ、やった」「おじさんできたよ」の歓声を聞いてすっかり若返った。
まだ当分は頑張れそう。

2009年9月26日土曜日

律儀な花たち


            
 庭に紅白の曼珠沙華が咲いた。
十数年前に近所から分けて頂いたのを植えたものだ。
 彼岸花とはよくも名づけたもので、雨の多い年でも、日照りのつづいた年でも、また、冷夏でも暑い夏でも彼岸が来ると必ず咲いてくれる。
 今年も先週の終わりごろから花芽が出だし、きっちりと彼岸の中日には満開になった。
 自然の摂理とは不思議なものである、今更ながら感心することしきり。
 ところがいっぽうアメリカみずき、ことしの夏の後半の暑さに参ったのか、九月に入って葉が紅葉し始め、いまは半分ほど葉が落ちてしまった。異常な気候に敏感なものもあるのだ。来年花が咲くかどうか心配である。





 
















庭の

2009年9月12日土曜日

秋の訪れ


 9月9日重陽の節句の日、月下美人の花が咲いた。
 1月前に観察したときは蕾が五つ着いていたが、気候が不順だったせいか次から次にと落ちてしまい一つだけになった、それがやっと咲いてくれたのだ。
 今夜は咲きそうだと部屋の中に入れておいたのだが、見事に的中夜9時過ぎから開花しだした。
馥郁たる香りが部屋に満ち暫し至福の時、たった一輪それだけに余計愛おしく思えた。
 やっと美鈴が丘にも秋が訪れた、夜半耳をすますとコオロギの声が微かに聞こえてくる、凌ぎやすくなった。家内の父母が、そして私の父母また兄、いずれも暑い夏の最中に亡くなった、そんなことから秋がくると「嗚呼今年もなんとか生きている、よかった」と、しみじみ思う。

2009年8月13日木曜日

父母の大きな悲しみ

 『親死ね、子死ね、孫死ね」 なんとも恐ろしい言葉である。
 したし、これは一休禅師が残した言葉で、人間「親、子、孫」と順序よく死ぬるのが最も幸せで、この順序が狂うのが人生最大の悲しみであるということらしい。
 その点、私の父や母は想像がつかない程の悲しみを背負った一生だったとも言えるかもしれない。
 まず生まれて一年足らずのを次女を亡くす。山陰の厳しい冬の真中、風邪気味の幼女の往診を頼んだが「忙しいから往けない、連れて来なさい」と断られ、ねんねこに包んで医院まで往く。
 これが悪かったのか肺炎をおこしてあっけなく亡くなってしまった。「あのとき往診に来てくれていたら死なずにすんだのに、あの医者は絶対許せない」80歳を過ぎても母は恨み言を繰り返していた。
 次に末っ子の妹、臨月になってから母が風呂場で滑って転び、幸い流産はしなかったものの
生まれたとき臍の緒が首に巻き付きしばらく産声もでなかった、びっくりした産婆さんが逆さにして振ったり、懸命に背中を叩いたりしてやっと呼吸を始めたとのこと、その所為か心臓に欠陥があり虚弱な子供だった。
 一年遅れて小学校に入ったが半年ほどで休学療養に入る。亡くなる半年前から不整脈がでだし苦しみ出した、発作が始まると家族全員が枕元に集まり固唾をのんで見守る。そしてやがて治まり顔を見合わせてほっとする。こんなことを何回か繰り返したがある日遂に心臓が止まってしまった。母が最後の添い寝だと、哭きながらいつまでも抱きしめていたのが忘れられない。
 次の年一番上の姉が亡くなる。小学校6年生のとき、学校の廊下の曲がり角で走って来た男子生徒の頭が胸に当たり気を失ってしまった。それがもとで肋膜炎を患い高等女学校3年を終えてから休学することになる。茶室として建て増した2回の部屋で療養していたが、病気が移るのを心配してか私らが部屋に入るのは禁じられていた。
 ある日の朝突然、2回に来るよう呼ばれた。いってみると母に湯飲みに入った水と真新しい筆を渡され「さあ末期の水を飲ませてやってくれ」と促された、突然のことで頭が真っ白になった。前後のことは記憶が無いが血の気を失った白い唇を今でも鮮明に覚えている。
 その年の秋、知恩院に娘3人の遺骨を納め永代供養するため父と母は京都へ行く。宿に泊まった朝、突然母がこう叫んだ「今朝の夢に冨美子が出て来て、知恩院はいや、高野山がいい
と言っていた。すぐ高野山に行きましょう」、黙って聞いていた父は『解った、お前の気の済むようにしよう」と、すぐさま予定を変更して高野山に向かった。
 昭和16年といえば、何時アメリカと戦争になるか騒然としていたころ、戦争になればせっかく元気で残った男の子二人も駆り出される、そうなれば‼。
 悩み苦しみだ母が錯乱状態になったのもよく解る。幸いその後は順序よく父を送り、母を送ることができた。今後も順序を狂わせずいきたいものと祈るような気持ちでいる。
 今日8月13日は母の命日である。