2009年8月13日木曜日

父母の大きな悲しみ

 『親死ね、子死ね、孫死ね」 なんとも恐ろしい言葉である。
 したし、これは一休禅師が残した言葉で、人間「親、子、孫」と順序よく死ぬるのが最も幸せで、この順序が狂うのが人生最大の悲しみであるということらしい。
 その点、私の父や母は想像がつかない程の悲しみを背負った一生だったとも言えるかもしれない。
 まず生まれて一年足らずのを次女を亡くす。山陰の厳しい冬の真中、風邪気味の幼女の往診を頼んだが「忙しいから往けない、連れて来なさい」と断られ、ねんねこに包んで医院まで往く。
 これが悪かったのか肺炎をおこしてあっけなく亡くなってしまった。「あのとき往診に来てくれていたら死なずにすんだのに、あの医者は絶対許せない」80歳を過ぎても母は恨み言を繰り返していた。
 次に末っ子の妹、臨月になってから母が風呂場で滑って転び、幸い流産はしなかったものの
生まれたとき臍の緒が首に巻き付きしばらく産声もでなかった、びっくりした産婆さんが逆さにして振ったり、懸命に背中を叩いたりしてやっと呼吸を始めたとのこと、その所為か心臓に欠陥があり虚弱な子供だった。
 一年遅れて小学校に入ったが半年ほどで休学療養に入る。亡くなる半年前から不整脈がでだし苦しみ出した、発作が始まると家族全員が枕元に集まり固唾をのんで見守る。そしてやがて治まり顔を見合わせてほっとする。こんなことを何回か繰り返したがある日遂に心臓が止まってしまった。母が最後の添い寝だと、哭きながらいつまでも抱きしめていたのが忘れられない。
 次の年一番上の姉が亡くなる。小学校6年生のとき、学校の廊下の曲がり角で走って来た男子生徒の頭が胸に当たり気を失ってしまった。それがもとで肋膜炎を患い高等女学校3年を終えてから休学することになる。茶室として建て増した2回の部屋で療養していたが、病気が移るのを心配してか私らが部屋に入るのは禁じられていた。
 ある日の朝突然、2回に来るよう呼ばれた。いってみると母に湯飲みに入った水と真新しい筆を渡され「さあ末期の水を飲ませてやってくれ」と促された、突然のことで頭が真っ白になった。前後のことは記憶が無いが血の気を失った白い唇を今でも鮮明に覚えている。
 その年の秋、知恩院に娘3人の遺骨を納め永代供養するため父と母は京都へ行く。宿に泊まった朝、突然母がこう叫んだ「今朝の夢に冨美子が出て来て、知恩院はいや、高野山がいい
と言っていた。すぐ高野山に行きましょう」、黙って聞いていた父は『解った、お前の気の済むようにしよう」と、すぐさま予定を変更して高野山に向かった。
 昭和16年といえば、何時アメリカと戦争になるか騒然としていたころ、戦争になればせっかく元気で残った男の子二人も駆り出される、そうなれば‼。
 悩み苦しみだ母が錯乱状態になったのもよく解る。幸いその後は順序よく父を送り、母を送ることができた。今後も順序を狂わせずいきたいものと祈るような気持ちでいる。
 今日8月13日は母の命日である。

1 件のコメント:

  1. 婆さまが亡くなってもう20年以上になるね…。
    亡くなったのがお盆だったことはよく憶えている。
    俺は一回目の東京勤務の三年目、
    ちょうど「お墓」という奇妙なNスペに駆り出されていて、
    お盆が仕事の山場になるので葬式に帰れなかった。
    秋になって、四十九日かなんかで帰ったように記憶している。

    婆さまは長生きをされて、
    最後はひ孫のみずきを抱くこともできたので、
    後半生はきっと幸せだったのだろうね。

    返信削除